今の行政に変えられないなら、自分が変えていくしかない。
それが20代のとき、生まれて初めて政治の世界を志したときの想いだった。
生粋の仙台生まれ仙台育ち。仙台工業高等学校を卒業後、仙台市交通局に入職。
社会人一年目のある日、出勤途中に車に衝突される大事故を被り、瀕死の重傷を負う。
奇跡的に一命を取り留めたものの、6ヶ月の入院生活を余儀なくされてしまう。
長い入院生活の中でこれまでの半生を振り返り、「せっかく頂いた命なのだから、
何か人のためになることをやらなければ」という想いが自分の中で強くなっていった。
退院後は市民活動にも積極的に関わるようになり、社交ダンスのサークルで連絡会会長を務めたりした。
その活動の中で、市民の声がなかなか行政に届かない、仮に届いたとしてもそれが生かされることは
ほとんどないという現実を目の当たりにした。
「今の行政には市民の声を生かし、市政に反映させる力がない。ならば、自分がその現状を変えていくしかない」
その想いは日に日に強くなっていき、いつしか仙台市の市政に携わりたいと強く思うようになる。
27歳の12月、これまでの市政を変えていくという志のもと、10年近く勤めた交通局を退職。
4ヶ月後に仙台市議会議員選挙に初めて立候補するも、わずか250票及ばず落選。
4年間の浪人生活を経て、32歳にして初当選を果たす。その後7期連続で仙台市議会議員を務め、
仙台市発達支援センターの設立やトラストシティの招致など、福祉やまちづくりに尽力している。
[生年月日]
昭和34年3月1日
[経歴]
昭和40年3月 仙台市立東二番丁幼稚園 卒園
昭和46年3月 仙台市立東二番丁小学校 卒業
昭和49年3月 仙台市立五橋中学校 卒業
昭和52年3月 仙台市立仙台工業高等学校 卒業
[職歴]
昭和52年4月 仙台市交通局 入職
昭和61年12月 仙台市交通局 退職
平成3年4月 仙台市議会議員 当選
以降7期連続 仙台市議会議員
[議員歴]
市民教育委員会 委員長
公営企業委員会 委員長
東西線沿線整備調査特別委員会 委員長
観光振興調査特別委員会 委員長
議員運営会委員会 委員長
平成23年9月 仙台市議会議長
宮城県市議会議長会 会長
平成25年9月 東北市議会議長会 会長
[これまでの主な活動]
全国の志ある青年議員に呼びかけ、全国若手市議会議員の会を結成。第4代会長として活動。
「スポーツ市議会の会」会長・幹事長として、ベガルタ仙台、仙台89ERSを強力に支援。東北楽天ゴールデンイーグルスの仙台市誘致、フットサル・ヴォスクオーレ仙台のFリーグ昇格に尽力。
第52代仙台市議会議長として、国・政府と粘り強く交渉し、市独自の復興事業や被災家屋の解体申請延長などを実現。
東北市議会議長会会長、宮城県市議会議長会会長として東日本大震災からの復興・まちづくりを牽引。
パークゴルフ議員連盟会長として、津波で流された荒浜・パークゴルフ場の再生に尽力。
全市議による「いじめ問題等対策調査特別委員会」委員長として、市や教育委員会の議論をリード。いじめ撲滅をめざす。
全国若手市議会議員の会 会長
仙台市国民健康保険協議会 会長
仙台市青年グループ連絡協議会 会長
宮城県青年の船友の会 仙台ブロック会長
仙台市スポーツ推進協議会 副会長
宮城県ユースホステル協会 会長
宮城県リズムダンス連盟 会長
パークゴルフ議員連盟 会長
仙台市テコンドー協会 会長
仙台市立高校を支援する議員の会 代表
仙台市立工業高等学校同窓会 前会長
仙台市ボクシング協会 会長
若林区空手道連盟 会長
自由民主党 仙台市若林区支部長 など